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「足立区」は、今から約5000年前は海でした。気候の変化によって海面が上がり、奥東京湾といわれる海になりました。当時の海岸線は、今の毛長川あたりだと考えられています。平成4年に、伊興遺跡から、約4000年前に作られた縄文土器が発見されました。 大鷲神社遺跡から出土した縄文土器と文様がそっくりなことから、ほぼ同じ時期の縄文土器といえます。これらの縄文土器が出土した場所は、浮島状にわずかに高かった微高地と呼ばれたところです。縄文人は、この微高地に簡単なキャンプを張って、浅い海や湖にいる魚介類を採集していたのではないかと考えられています。まだ、「足立区」に定住したとみられる生活の跡は発見されていません。
弥生・古墳時代(紀元前300〜西暦500頃)弥生時代の紀元前3世紀ごろ、大陸から稲作が伝わり、日本人の主食である米作りが始まりました。今からおよそ2000年前には、気候の寒冷化によって、海面の上昇がとまり、海に土が堆積して、現在のような地形ができました。縄文時代の海水面の上昇が終わると関東平野の陸地化がはじまりましたが、足立の陸地化は周辺の葛飾や草加などより遅れました。その最大の要因は河川の合流点にあったことで、利根川・荒川水系がこの地で合流し、古東京湾に流入していた状態であり、低湿地という自然条件が改善されることがなかったことによります。 古墳時代になると、毛長川沿いに遺跡が急速に増え、遺跡の中からは祖先が暮らしていたことがわかる土器など様々な生活用品が出土しています。足立区に人が定住し始めたのはこの頃と考えられています。 。
律令(りつりょう)による国家体制が整い、地方は国・郡・里(郷)に行政区画され、役所が置かれました。「足立区」は、武蔵国足立郡(むさしのくに・あだちぐん)という行政単位に含められました。「足立」という地名は、大化の改新の時に命名されたと伝えられていますが、記録として残されているのは、735年が最初で、長屋王の邸宅跡から発見された木管にその名が記されています。また、足立郡出身の丈部直不破麻呂(はせつかべあたいふわまろ)が764年の恵美押勝(えみのおしかつ)の乱での功績により、武蔵国造(むさしのくにのみやっこ)に任命されたという記録も残っています。
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